平泉での観光は芭蕉句碑も散策しよう

松尾芭蕉句碑

基本情報
建立場所 中尊寺金色堂 毛越寺境内 高館義経堂
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松尾芭蕉句碑

松尾芭蕉句碑
「五月雨の 降残してや 光堂」
場所 中尊寺金色堂
建碑 延亨3年 1746
松尾芭蕉句碑
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
場所 毛越寺南大門跡の傍ら
建碑 宝暦7年 1757
松尾芭蕉句碑
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
場所 高館
建碑 平成元年
松尾芭蕉副碑英文
The summer grass 'Tis all that's left of ancient warrior's dreams
場所 毛越寺境内
建碑 昭和42年新渡戸稲造英訳

松尾芭蕉副碑
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
場所 毛越寺境内
建碑 文化3年 1806
芭蕉がみちのくの旅を思い立ったのは元禄2年1689年芭蕉48歳、門人曽良41歳の時 歌人西行を慕いみちのくの歌枕を訪ねることにあったと多くの研究者が指摘している処です。
「五月雨の 降残してや 光堂」
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
の句は奥の細道の紀行文の中で詠むことにより更に芭蕉の感情を 深く汲み取れる気がする。
ちなみに、この文の中で秀衡、康衡、兼房はあれど義経の名前が出てこない、 意図的に出さない事で義経を大きく悲劇のヒーローとして 我ら読み手に捉えさせようとした?。
三代の栄耀(えいえう)一睡(すゐ)の中にして、大門のあとは一里こなたにあり。 秀衡(ひでひら)が跡(あと)は田野に成りて、金鷄山(きんけいざん)のみ形を残す。 先づ高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河なり。衣川(ころもがは)は 和泉(いづみ)が城(じやう)をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。 康衡(やすひら)等が旧跡(きうせき)は、衣(ころも)が関(せき)を隔(へだ)てて 南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて此の城にこもり、 功名(こうみやう)一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、 笠うち敷(し)きて時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。

夏草(なつくさ)や兵(つはもの)どもが夢(ゆめ)の跡(あと)

卯(う)の花(はな)に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しろげ)哉(かな) 曾良

かねて耳驚かしたる二堂開帳(かいちやう)す。経堂(きやうだう)は三将の像をのこし、 光堂(ひかりだう)は三代の棺(くわん)を納め、三尊の仏(ほとけ)を安置す。 七宝(しつぱう)散りうせて、珠(たま)の扉(とびら)風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(さうせつ) に朽(く)ちて、既に頽廃空虚(たいはいくうきよ)の叢(くさむら)となるべきを、 四面新に囲(かこ)みて甍(いらか)を覆(おほ)ひて風雨を凌(しの)ぐ。暫時千歳の記念とはなれり。

五月雨(さみだれ)の降(ふ)りのこしてや光堂(ひかりだう)

おくのほそ道

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