平泉の世界遺産観光は義経・弁慶終焉の地の観光コースを紹介

義経・弁慶終焉の地コース

コース内容と所要時間
義経弁慶終焉の地を訪ねるコースです。 所要時間は徒歩時速3kmで表示・見学時間は含まれていません。
歩いて見学時間を含めるとおおよそ3,4時間前後でしょうか、、
平泉駅 1.2km

24分
高館義経堂 0.5km

12分
弁慶堂 0.1km

2分
弁慶の墓
            1.4km

30分
            平泉駅
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源義経と武蔵坊弁慶

義経が始めて平泉を訪れてのは1174年、御歳16歳の時、金売り商人で有名な金売吉次に伴われ初めて足を踏み入れました。 その時代、平泉は京都の文化にも引けを取らない平泉文化の成熟期を迎えていた頃でした。
秀衡が造営した無量光院は(模したとされる宇治の平等院にも引けをとらない)規模の壮大さと優美さに義経は驚愕した筈です。
時には毛越寺の浄土庭園をそぞろ歩き、大泉ケ池では龍頭鷁首の船を浮かべ平泉の雅な文化に触れたと想像されます。
そして基成の屋敷に居住していた義経は朝な夕なに覆い堂のない裸の「金色の御堂」を仰ぎ見ていた事でしょう。
頼朝挙兵までの6年間義経は22歳までここ平泉で過ごしました。
安宅の関所を通り、弁慶と共に奥州平泉への逃避行は1187年平泉へ、2度目の来泉でした。時に義経29歳。
落ち延びてきた義経を秀衡は温かく迎えましたがその年秀衡公は亡くなり翌年泰衡の急襲を受け 高館で自ら自刃します。
衣川の河原に下りて獅子奮迅の働きをした弁慶も全身に矢を受け寄せ軍兵を睨み据えて絶命しました。 世に言う「弁慶の立ち往生」です。
弁慶の人気のバロメーターに「弁慶の七つ道具」「内弁慶」「弁慶の立ち往生」「弁慶の泣き所」など多くのことわざが有ります。
また歌舞伎の勧進帳では義経・弁慶は弁慶が主役です。
ちなみに義経では、「判官びいき」謡に「その時義経少しも騒がず」と云うのがあります。
そのキャラクターが大衆の心を揺さぶるのか、潔さ、男の美学が引きつけるのか共に大衆に愛された二人です。
義経・弁慶終焉の地を巡る旅、悲運のヒーロー「義経」ともう一人の主役「弁慶」が岩手は平泉をご案内しますョ。
高館義経堂 高館義経堂
源義経の最期の場所として知られる。仙台藩藩主により義経堂と義経の木像が建立された。 以降高館義経堂、判官館などと呼ばれるようになる。
弁慶堂(愛宕堂) 弁慶堂(愛宕堂)
弁慶の木造が祭られて愛宕堂は今は弁慶堂と呼ばれています。
弁慶の墓 弁慶の墓
1189年義経の居城高館焼打ちされるや弁慶は最後まで主君を守り遂に衣川にて立往生す。 遺骨をこの地に葬り五輪塔を立て…と看板にあり。
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